19世紀後半から、覇権を争う五つの列強、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシア、フランス、イギリスの力関係が徐々にバランスを崩していくなか、思わぬ事件をきっかけに勃発する第一次世界大戦。5歳だったゴールドベルクはこの時、たまたま母の療養のために当時のオーストリア領であったボヘミアの保養地、カールスバードに行っていた。至る所から降って湧いたような出征兵士団に囲まれてのポーランドへの帰路は、のちに彼が旅する自由世界への道程の険しさを暗示するかのようであったらしい。
数百年間ヨーロッパに君臨したハプスブルグ家の滅亡、新興の強大な軍事国家ドイツの敗戦。一方で、ばらばらになった多民族の各民族ごとに燃えるナショナリズム、各民族自らの困難な国づくりとの格闘。高まる反ユダヤ感情、そして世界を襲う大恐慌。この戦後の混乱から、僅か15年経たずして見る見るヒットラーの野望の餌食となっていったドイツだが、1920年代のベルリンの文化面に於いての活力は、ヨーロッパのどの大都市にも勝るものであったと聞く。三つのオペラ劇場は毎夜賑わい、前衛作家ブレヒトの新作が一夜に二回、8時〜10時に続き深夜11時から午前1時と上演される等、例は枚挙にいとまがない。
ベルリンデビューの一年後、1925年16歳のゴールドベルクはその稀有な資質を乞われて、エーリヒ・クライバーが首席指揮者であった名門オーケストラ、ドレスデン管弦楽団のリーダーに抜擢される。史上最年少のコンサートマスターの誕生に周囲の驚きがいかに大きかったかを語るものとして、カフカの友人、マックス・ブロードが当時、ゴールドベルクに宛てた祝福の手紙が私の手許に残っている。
フルトヴェングラーは、「ドイツ音楽の正統を守るため、シモン・ゴールドベルクはベルリン・フィルハーモニックにとって不可欠な人材である」とし、その地位は就任当初から、常任指揮者であるフルトヴェングラーが指揮台に立つ時のみコンサートマスターを務めるという、極めて異例の特権も加えて守られていた。ヒトラーとナチズムの政権奪取に続く暗黒の日々の到来まで、黄金時代を謳歌したベルリン・フィルハーモニックにまつわる両者の逸話は数多い。在任僅か4年で迫り来る危機にゴールドベルクが国外退去したあと、フルトヴェングラーがフレッシュに送った書簡に次のような一節を見付けた。「私が、光輝あるドイツ音楽の歴史が危機に瀕することから守るために仕事を続けるには、絶対必要な人物がゴールドベルクであった。彼が楽団とドイツを去らねばならない理由はわかるが、私は、彼が私と私の仕事を見捨てていってしまったという気持ちを隠しきれない」。
(1998年7月8日掲載)