二
十世紀を代表する稀代のヴァイオリニスト、シモン・ゴールドベルクは、1993年7月19日未明、富山県立山で84年の生涯を閉じた。
ゴ
ールドベルクは、ユダヤ系ポーランド人として、1909年、当時ロシア領であったワルシャワからヴィスワ川の流れを西へ約100キロ程下った処にある静かな街・ウォツワヴェックにて生をうけた。残された数葉の写真には、家族の深い愛情に包まれた五人兄弟の末子、知と美の恵みに輝いた少年シモンの愛くるしい姿がある。彼の容貌の際立った特徴である目は、この頃すでに何かを視ている目だが、その表情はいかにもあどけない。やがて世界を引き裂く第一次世界大戦が足音を忍ばせているヨーロッパ。しかしゴールドベルクにとって家族と共に過ごしたポーランドでのこの幼い日々こそ、のちに彼の歩んだ人生の中で最も幸せな数年であったのではないであろうか。
ポーランドの生んだ偉大なハープシコード奏者、ワンダ・ランドフスカに見出され、ゴールドベルクはベルリンの名ヴァイオリン教師カール・フレッシュの許で学ぶことになる。1917年、敗戦前夜のドイツへ旅立つ8歳の少年。幼い胸に抱かれた家族への想い、そして別離。彼を待ち受ける運命は、こうした彼を無条件の愛情で見守ってきた両親と四人の兄達の許へ、二度と還ることのないものとしてしまう。
15
歳。ベルリン・フィルハーモニックとの協演で一夜に三大ヴァイオリン協奏曲を演奏して正式に楽壇にデビューしたゴールドベルクは、彗星の出現のような存在として当時のヨーロッパの注目を集め、目映いばかりの将来を約束されていた。
しかし十年足らずして、ドイツはヒットラー率いるナチス施政下に置かれることになる。1934年、フルトヴェングラーの反対を押し切ってドイツを去るゴールドベルクは25歳。ポケットに当座をしのぐ僅かなお金と手にはヴァイオリンだけ。妻とそして預かっていたヒンデミットの仔犬を連れて、刻々と迫る身の危険に直面しながらの逃亡であった──と彼はポツリと言っていた。
第二次世界大戦勃発までのそれからの五年は、ポーランド国籍ゆえに、一つの国に三カ月以上の滞在を許されぬまま、住む国、住む家を持たずに世界を演奏旅行する。1936年の初来日もこの時期のことである。
私
がゴールドベルクと共にした時間は最晩年の六年間のみである。彼は過去のことを殆ど語らなかった。唯、自分の行く処には常に何らかのトラブルが待ち受けていたと言っていた。そもそも、生まれた時期も場所も悪い。二つの世界大戦に一個人、一家族、一民族として翻弄され生きぬいてきた苦闘は、人に語るようなものではなかったのだと私は私なりに理解したつもりで、彼の言わないことをあえて聞き出そうとはしなかった。
そして今彼亡きあと、私は彼の足跡を辿る旅を繰り返して来た。まずは、戦後の活動の拠点であったニューヨーク、アムステルダム、ロンドン。加えて、若き日の彼の熱い想いを探るべく、彼が決別した過去──ヒットラーとスターリンのもたらした破壊により昔の面影をとどめぬポーランドと、西暦2000年の首都移転に向けて世界一巨大な工事現場と化したベルリン。昨年は、家族の内でただ一人ホロコーストを生きぬき逃れ得た兄嫁を訪ねてイスラエルにも足を伸ばした。
彼の生涯は、20世紀の世界史そのものでもある。人の一生を通じて、その歩みが語る時間の重さを知る。
(1998年7月5日掲載)