1909 | | 6月1日、ロシア統治下のポーランド、ヴウォツワヴェクに生まれる。裕福なユダヤ系の家庭で、5人兄弟の末子として育つ。
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1915 | 6 | 6歳より、セヴチック門下のヘンリク・チャプリンスキーにヴァイオリンの手ほどきを受け7歳からは、ワルシャワに住むアウアー門下のヴァイオリニスト、ミェチスワフ・ミハローヴィッツのもとに通い、より本格的な指導を受ける。
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1917 | 8 | ゴールドベルクの稀有な才能に目を留めたワンダ・ランドフスカの薦めにより、単身ベルリンに留学。
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1918 | 9 | 名教師カール・フレッシュのもとで8年間にわたり、徹底的な基礎教育を受ける。 |
1921 | 12 | ワルシャワ交響楽団とパガニーニのコンチェルト(ニ長調)を共演。 |
1924 | 15 | ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とバッハ(ホ長調)、パガニーニ(ニ長調)、ヨアヒム(第2番「ハンガリー風」)のコンチェルトを共演。 |
1925 | 16 | 師フレッシュの推薦により、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターとなる。
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1929 | 20 | フルトヴェングラーに乞われて、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の史上最年少(19歳)のコンサートマスターとなる。
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1931 | 22 | 急逝したヴォルフシュタール(1899-1931)に代わり、ヒンデミット、フォイアマンと共に弦楽トリオとして活動する。 メゾ・ソプラノ歌手のアンヌ・マリー・マナッセと結婚。
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1934 | 25 | ナチスの台頭により、ベルリンを去る。その後、世界各地を演奏旅行(ソリストとして、あるいはリリー・クラウスと共に)。 |
1936 | 27 | リリー・クラウスと共に来日。東京、大阪、神戸などで公演を行う。 |
1938 | 29 | ニューヨーク、カーネギーホールにてアメリカ・デビュー。 |
1942 | 33 | ツアーで立ち寄った、インドネシア・ジャワ島(オランダ領東インド)にて、日本軍の捕虜となる。 |
1945 | 36 | 終戦により解放され、オーストラリアにてキャリアを再スタート。
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1947 | 38 | オーストラリアを離れ、ヨーロッパでの演奏活動を再開。 |
1948 | 39 | アメリカ国籍取得のため、ニューヨークに居を構え、アメリカに半年、ヨーロッパに半年、と往復しながら演奏活動を行う生活が5年間続く。
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1951 | 42 | アスペン音楽祭に教授陣として参加(1966年まで)。ゴールドベルク、プリムローズ、グラウダン、バビンによるフェスティバル・クァルテットを結成。
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1953 | 44 | アメリカ国籍取得。 |
1955 | 46 | オランダ政府の要請により、オランダ室内管弦楽団を結成。以後22年にわたり、常任指揮者、ソリスト、音楽監督としてオランダ室内管弦楽団を率いて、世界の主要音楽祭に出演。日本にも1966年に来日して5回の演奏会を行う。その他、指揮者、ソリストとして、BBC交響楽団、ロンドン交響楽団、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団、クリーヴランド管弦楽団などと共演。
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1960年代後半 | | 妻マリア重病の兆しのため、オランダからロンドンに居を移す。 |
1969 | 60 | ラドゥ・ルプーとデュオを組み、演奏会、レコーディング活動を行う。
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1977 | 68 | オランダ室内管弦楽団の指揮者を退任。 |
1978 | 69 | アメリカに移住。妻マリアの看病に専念するため、演奏活動を中断。イェール大学、ジュリアード音楽院、カーティス音楽院、マンハッタン音楽院などで教授活動を行う。 |
1985 | 76 | 妻マリア、病没。 |
1987 | 78 | 桐朋学園に招かれて、来日。オーケストラの指導、室内楽の公開講座を行う(1990年までの毎年)。 |
1988 | 79 | フィラデルフィアにて、山根美代子と結婚。
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1990 | 81 | 新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮者に就任。
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1991 | 82 | 富山にて、山根美代子とデュオ・リサイタル及びレコーディング(東芝EMI)。
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1992 | 83 | 新潟にて、山根美代子とデュオ・リサイタル。フィラデルフィアを引き払い、日本に居を移す。 |
1993 | 84 | 4月 水戸室内管弦楽団を指揮。6月 桐朋学園で公開講座を行う。
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| | 7月19日 富山、立山国際ホテルにて急逝。その数時間前までリハーサルに打ち込んでいた。84歳。
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