シモン・ゴールドベルクは常々、「音楽は人間の精神の表現手段の一つであって、文学なら言葉で、美術なら色彩や造形で、音楽は音の響きで、人類の持つ文化を表現している。文化とはトータルなものなので、音楽家が音楽のことにしか興味を持てないなら、何時か行き詰まってしまうのではないだろうか。音楽を一生涯かけて永く探求していくには、本も読み、絵画、彫刻などにも接し、広い視野で音楽を捉えた上で、音楽独自の専門的な修練を積んでゆくべきである。」と言っていたそうです。
このようなシモンの精神の佇まいを深く理解していた妻、美代子は、この美術館にシモン所蔵の美術品19点を寄贈し、この美術館で室内楽の演奏を聴けるようにすることで、音楽と美術のコラボレイションの場を作り、シモンが音作りをしていたのと同じような空間を演出して、世に示すことを考えていたのでしょう。
(大木 裕子)
シモン・ゴールドベルクの最もよき友は本だったのではないでしょうか。加えて絵画や彫刻であったように思います。日常生活において、彼は身辺に常に美しい物を求めていました。第二次世界大戦後、難民のように持ち物ゼロの状態から、新しい生活を築き上げていく道程において、彼の眼差しが捉えた数々の美術品を、彼亡き後、私は預かってしまっております。これ等の宝物を、私の死後、どのようにしたらよいかという問題は、常に私の頭の片隅にありました。
「こしのくに音楽祭」を通じて、松井様、新木様、梅田様、石井知事をはじめ多くの素晴らしい方々との出遭いがありました。そして今、私は県立中央病院に入院しておりますが、その優れた医療に加え、人間的にまことに上質な医療チームによる手あつい看護を受けるという幸運に恵まれており、ここに又富山との新たな絆が生まれました。
人と人との出遭いとはまことに不思議なものであり、そもそもゴールドベルクと私の出遭いも全くの偶然でありながら、何か目に見えない糸で引き合わされる様に、運命づけられていたような気がします。
ゴールドベルクが最晩年を立山で過ごしたのも、富山に住む東洋医学の治療師との出遭いがあってのことでした。
「こしのくに音楽祭」を立ち上げて下さった皆様方のご尽力から、此の度、私は富山の方々の心の在り方、人の輪の貴さをつくづく教えられた気がいたします。
「こしのくに音楽祭」の主旨は、ゴールドベルクの音楽とその精神を次世代に伝えていくことですが、彼の人となりをよく顕している、そして彼と永年に亘り時間を共にしてきた所蔵の美術作品たち…あたかも彼の人生の一部であるかのような…をも併せて、富山の方々に託していくことが、「こしのくに音楽祭」の精神を受け継いでいく延長線としての視点から、より完全なものになり、且つきわめて自然ななりゆきであるように思えるのです。又、県立近代美術館の常設のカタログを見たとき、バルセロナ・チェア、マリノ・マリーニ、ジャック・ヴィヨンと、まさにゴールドベルクの所蔵の作品がそのままそこにあり、両者の傾向の類似性に驚いたものです。
ゴールドベルクの急逝から13年経った今日、富山の方々がお心をひとつにして彼の芸術を大切な文化遺産としてこの地で息づかせようとご努力していただいている中、恐らくゴールドベルク本人も、私のこの意志に同意見であっただろうと思います。
2006年10月16日富山県立中央病院にて 青木直子氏(実妹)による述筆記
20世紀を代表するヴァイオリニストで指揮者であった故シモン・ゴールドベルク氏(1909-1993)は、夫人でピアニストの故山根美代子氏(1939-2006)と共に、最晩年を立山山麓で過ごしました。生前、彼は自身の人生観や芸術観と共鳴する美術作品を収集し、常に手元に置き大切にしていました。
夫の死後、それを受け継いだ夫人は、作品が当館の収集方針に合致することと、夫の終焉の地となった富山の多くの人々に鑑賞してもらいたいとの願いから、2006年にコレクションをご寄贈下さいました。
このポケット・ギャラリーでは、シモン・ゴールドベルク氏の生誕100年を記念して、ご夫妻が常に身近に置き守り続けた寄贈作品全19点をご紹介いたします。
1948年 | 紙・インク、パステル | 39.5×57.3cm
1958年 | キャンバス・油絵具 | 61×81.3cm
1966年 紙・水彩絵具、アクリル絵具、22.7×22.8cm
1966年 | キャンバス・油絵具 | 76.3×75.9cm
1926年 | 紙・インク | 21.7×27.5cm
1938-40年 | ブロンズ | 26×25.5×9.5cm
1951年 | ブロンズ | 35.4×25×12.8cm
1956年 | ブロンズ | 46.5×25×8.3cm
1929年 | デザイン スティール、革 | 75×57×76.5cm 2脚
1923年 | キャンバス・油絵具 | 129.5×150.3cm
1960年 | 厚紙・油絵具 | 29.3×39cm
1950年 | 紙・水彩絵具 | 15.6×19.2cm
1957年 | 紙・リトグラフ | 51.5×44cm
1960年 | 紙・エッチング、アクアチント | 13.3×11cm
2006年に寄贈を受けたシモン・ゴールドベルク&山根美代子コレクションは、全19点からなる。内訳は、油絵4点、水彩・ドローイング4点、彫刻3点、版画6点、椅子2脚である。コレクションといってもおびただしい数を誇るものではないが、シモン・ゴールドベルクの生き様が色濃く投影された貴重なコレクションである。
ゴールドベルクは弱冠19歳で名門ベルリン・フィルのコンサートマスターに抜擢された天才ヴァイオリニストであった。栄光に輝く彼の未来を誰一人として疑う者はいなかったであろう。ところが、ナチスの台頭によって彼の未来は暗澹たる黒い雲に覆われてしまう。彼はポーランド生まれのユダヤ人であった。
ナチス支配のドイツでゴールドベルク一家はことごとく逮捕され、強制収容所に送られた。アメリカに渡る目的で外国演奏旅行を続け九死に一生を得たシモンは、第二次世界大戦後、兄の一人と奇跡的な再会を果たすが、消息不明のままの親族は多い。何もかも失った彼がアメリカに渡るは1948年。美代子夫人が記しているように、文字通り「ゼロ」からのスタートであった。
決して生活に余裕があったわけではないが、美術作品を身近に置くようになったという。音楽家は音楽だけに専心していればいいというものではない。さまざまな芸術を滋養として、人間性を常に高めなければならないと常々考えていたからである。彼の遺品の中に美術品があるのはかえって自然なことであった。
とはいえ、体験というにはあまりにも過酷な傷を負ってしまったゴールドベルクの人生を重ねて、このコレクションを見直すと、美術が音楽家の人間性を高めるという信条だけでない、人間シモン・ゴールドベルクの思いが伝わってくるような気がする。コレクションに名を連ねるドイツ語圏の美術家すべてが反ファシズムを公にしたが故に、ナチスの迫害を受けているのだ。
ケーテ・コルヴィッツは女性や子供、社会の下層に生きる人々をひたすらテーマにし続けた。いち早く、ヒットラー率いるナチスに反対の意を表明した彼女は、公での作品公開が禁止されてしまう。
パウル・クレー、ヘルベルト・バイヤー、ハンス・ライヘル、ミース・ファン・デル・ローエは、ナチスから目の仇とされた、自由思想を基本とした美術学校バウハウスで教鞭をとったり、学生であったりした美術家たちで、ナチスに追われて活動の拠点を捨てざるを得なかった。
カール・ラブスはナチスの台頭に反対して出国。亡命先でユダヤ人女性と出会う。その後、二人は過酷な時代を生き抜き、戦後に再会し結婚する。ラブストーリー映画であれば、めでたしのフィナーレだが、現実はそうはゆかない。
ナチス政権時代にヨーロッパに踏みとどまったライヘルやラブスは30代から40代にかけての、美術家として最も充実した創作に明け暮れたはずの日々を、生涯の代表作となる作品に取り組めたはずの時間を、戦争によって奪われてしまった。
ドイツ語圏の美術家たちは総じてナチスによって故国や活動の拠点を失った美術家である。信念を曲げずに時勢に反抗した美術家たちであった。ゴールドベルクもまた過酷な時代を生き、そして生きることで戦い続けた。音楽家は、作品を見るごとに美術家たちの生き様に自身の姿を重ねたに違いない。作品を身近に置くことで、連帯の意識を、生きる勇気を、そして何よりもまして戦い続ける意志を確認していたのではないかと思うのである。