1987年、桐朋学園大学の招聘により、1か月間のオーケストラ指導のため来日したゴールドベルクは、これが1936年、1966年に次ぐ3度目の来日でした。以後継続的に桐朋学園オーケストラ指導及び室内楽の特別講座の依頼、また新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮などのため、毎年かなりまとまった期間日本に滞在するようになりました。そして山根美代子と結婚したこともあり、日本への永住も考えるようになりました。
その結果、東京の自宅は仕事の拠点とし、彼が一生涯夢見ていた「自分だけのための勉強、いつか静かに音楽上のまだ解けていない疑問を考えたり、心ゆくまで本を読んだりする時間と場所」を実現する場として、彼はここ立山山麓を選び、そのまま立山国際ホテルの471号室がシモンの終の棲家となりました。
ここで彼は、最も信頼する東洋医学の治療師から手厚い治療を受けながら、初めて平安な安らぎの内に、日々の勉強をし、散歩に出ると駆け寄ってきて身を摺り寄せてくる猫のタマを撫でたり、富山の美味しい日本食にも次第に馴染んでいきました。ヨーロッパで生まれ育ったゴールドベルクは、最晩年に至って、昔スイスの山で過ごした時のような空気を吸い、大都会にはない、そこに住む人々のもてなしの心を日々感じ、大好きな勉強を心ゆくまで為し、演奏会に向けての練習をし、遠くから訪ねてくる音楽家たちに助言をし、と正に長年思い描いてきた日々を送る中、1993年7月19日、その日も最も充実した練習と勉強の1日を過ごした後、自室で倒れ、急性心不全のため、急逝しました。
立山国際ホテルは、この世界の巨匠がこのホテルで生涯最良の日々を過ごしたことを記念して、471号室をシモンと妻美代子が住んでいたままの状態に保管し、美代子の死後も、特別展示室を設け、遺族が寄贈した彼らの身の回りのものなどを展示してありました。毎年、ゴールドベルク記念音楽祭も初日は当ホテルのチャペルで行われるのが慣例であり、ただシモンと美代子だけがそこに居ないような、当時のままの環境が保たれていました。
2012年、ホテルのリニューアルに伴って、チャペルや展示室のあった箇所は取り壊されたものの愛用品の一部は引き続き「Szymon Goldberg Miyoko Yamane Memorial」コーナーとして別館2階に展示されています。また、471号室は客室となったもののハイグレードの「特別客室」としてステイタスが維持されています。さらに、シモンの生涯が書かれた本、『20世紀の巨人 シモン・ゴールドベルク』や美代子との共演によるCD他、幾つかのCDなども売店に置かれています。
(大木 裕子)