東京:幻戯書房 2009年10月10日発行
『箴言集』に記されている箇条書きの短い言葉だけからでは、果たしてここで語られていることの重大さや本質的な意味がどれだけ伝わるであろうか、ましてやまったく異なる時代に生まれ育った若い世代の人たちが単なる方法論を超えて、どれだけのことをここから汲み取ることができるであろうかを考えた時、この箴言をより深く理解する一助として、彼の生涯そのものから語り始めるのがよいのではないかと美代子は考えました。
そこで、彼の幸せな幼年時代から始まり、天才少年時代、25歳の輝けるキャリアから突如、ナチスの迫害によって家族、生まれ故郷、教育を受けた国、築き上げた仕事の場、すべてを失って世界を流転し、その中で再び築き上げる演奏家としてのキャリア、数々の変遷を経て、最後に日本に於いてかち得た平安な最晩年までが様々なエピソードを交えて語られています。
84年の生涯の中で、平安なときも、苦難、苦悩の底にあるときも彼が常に失わなかった透明な思考力、確かな精神、生命あるものへの優しさなど、彼の持つその凛とした毅然たる姿勢と精神に、芸術というものの真髄を感じさせられます。
彼の死後、山根美代子が最初にまとめ上げた彼の音楽語録です。
これは、1992年カーティス音楽院に於いて、ゴールドベルクが行った最後のレクチャー、公開講座で、彼が語った言葉を箇条書きにしたものです。
「楽譜に記されている音符、記号、文字、すべてが作曲家からのメッセージである。
これらの意味するところを正しく読み取ることが、演奏家としての音楽づくりの基本である」。
この言葉を土台に彼が説く、例えばフォルテ、スタッカートなどの記号の表す様々な意味、場合によって同じ記号でもそれぞれ意味が異なってくる、それら記号の真の読み取り方、また、読み取ったことを演奏で実現させる実際の奏法などが、具体的に一つ一つ記されています。
ここでは、ゴールドベルクから直接薫陶を受けた7人の音楽家と美代子との対談が綴られています。(敬称略)
1. | 真実の音を求めて | ―― | ラドゥ・ルプー (ピアノ)との対話から |
2. | 楽譜の核心を見透す眼 | ―― | 小林健次 (ヴァイオリン)との対話から |
3. | あの音楽を生んだ 人間的、芸術的気高さ | ―― | 澤 和樹 (ヴァイオリン)との対話から |
4. | 〈SONORITY〉を問うレッスン | ―― | 安芸晶子 (ヴァイオリン)との対話から |
5. | 日本のオーケストラに託された宝 | ―― | 新日本フィルハーモニー交響楽団首席奏者との談話から 白尾 彰 (フルート) 花﨑 薫 (チェロ) 古部賢一 (オーボエ) |
この年譜は、演奏歴と言っても良いでしょう。演奏会やレコーディングの際のプログラムが載せてあり、ゴールドベルクのプログラム作りが覗えて興味深い。
この本(生涯編)及び講義録の2冊の著者、編者であるピアニスト山根美代子は、ゴールドベルクの生演奏を初めて聴いた瞬間、自分が今まで長い間求め続けてきた、音楽に対する〈答えの全て〉を見付けたという思いをもったそうです。
曲の解釈、演奏の構築の仕方、奏法、音の質、響きなどすべてが、ヨーロッパ音楽の薫りと伝統、演奏の歴史の流れを伝えている。
彼女は、こうした西洋音楽の演奏作りの真髄というべきものを、現代に至るまでの前の時代の音楽観を知らずに育つ現代の若き音楽家たちに、20世紀の遺産として伝えなければならない、音楽作品へのゴールドベルクのこのような視点の当て方、捉え方、そしてそれを実際に演奏の場に移す奏法などが、時代の流れと共にいつの間にか「幻」の解釈、奏法となってうやむやになってしまわぬよう、確と次世代に伝えていくのが今後の自分の使命であると感じたと語っていました。
それからの彼女は、彼の行った公開講座、レッスン、オーケストラのリハーサル、また妻として彼と共にした日常生活の中などあらゆる場面で彼が語る音楽についての言葉を書き留めておくようにしました。こうして纏めたものを彼女は生前に、音楽誌「ストリング」に対談形式で69回にわたって連載しましたが、いずれは本として世に出したいと言っていながら病に倒れ、天に召されてしまったのです。こうした彼女の遺志を継いで、遺族である妹2人は、上記2冊の本を出版に漕ぎつけました。
この生涯編は彼女が一人称で語る形式に再編集しました。