イザイからカール・フレッシュへ、そしてゴールドベルクへと継承されたヴァイオリン・ソナタの楽譜である。
書き込みは2種あり、1928年イザイによって書かれたフレッシュ宛のメッセージ、及び運指と注意書き。もう一つは1941年3月19日、フレッシュによって書かれたゴールドベルク宛の追記である。
1928年8月、フレッシュ宛の添え書きがあり、師からゴールドベルクに渡されたものである。グラズノフ《ヴァイオリン協奏曲作品82》の訂正箇所がスケッチされている。
ゴールドベルクがドレスデン・フィルのコンサートマスター就任直後、グラズノフの指揮で協奏曲を弾いた時、ヴァイオリン・パートの一部についてグラズノフに「君、ここをどう思うか?」と問われ、「ヴァイオリンの響きのためには、この書き方ではない方が良いように思う」と答えたところ、「その通りだね。じゃあ、そこを変えて弾くように」と言われたというエピソードが残っている。(p.25)
SG曰く。「モナ・リザの微笑みのことについて人々は何やかやと説を立てるけれど、あれは音楽を聴いている人の表情だと思うよ」と。(p.328)
文庫には、レオナルド・ダ・ビンチに関する洋書が4冊所蔵されている。
[作品名・制作年不詳]:ドイツ生まれ。バウハウスでクレーとカンディンスキーに学ぶ。1937年、ナチス政権によって退廃芸術家の烙印を押され、作品の制作や発表が禁止される。その後、労働収容所に収監。1951年アメリカに渡り、カリフォルニアの大学で教鞭を執る。音楽や宗教のテーマに風景を統合する新しい方向性を示す作品を制作する。
[作品名・制作年不詳]:ドイツ生まれ。1933年ヒットラーが権力を掌握すると、身の危険を察知しパリに逃れる。1941年、アメリカに移住し、書籍や雑誌のイラストレーターとなる。1960年代に出現するポップ・アートへの影響が取り沙汰され一躍注目を浴びる。
《高原の中のホテル》2006年制作:石川県生まれ。北陸三県や北海道の風景、猫や地蔵などを、豊かな色彩で表現。ゴールドベルク夫妻が最晩年を過ごした、思い出の立山国際ホテルの姿を多色刷り木版画で残してほしいという、美代子夫人のリクエストに応えて制作された。
初期教育についてSGは言う。「最初の先生チャプリンスキーはセヴチック門下、2番目の先生ミハローヴィッツはアウアー門下、以後8年間フレッシュのもとにいて、色々なメソードの色々な奏法を学び、自分の奏法を見出した。どのメソードにも良いところは必ずある。それを使い分けられる自分の本当の奏法を作っていかなくてはならない」。( p.19)
ベルリン留学時代、ポーランドに帰る時には、兄たちに画集を買って帰るほど、兄弟仲が良かった。SGにとっては、本も絵画も、生涯を通じて大事な友達だったが、日々の生活に困窮する時代、食べ物もないときに、「画集なんかを持って帰ったものですから、『きっと兄たちは、この坊やは、どうしようもないなと思ったのではないかな』とシモンは笑っておりました」。(p.20)
家族で唯一、ホロコーストを逃れたイエルジーとは、1946年パレスチナで再会を果たす。
SGは、フルトヴェングラーの指揮で、ソリストとしても舞台に立っている。フルトヴェングラーは、シーズンの初めに必ずベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲をSGに弾かせた。初めてのリハーサルの後、フルトヴェングラーから合わせについて何か希望があるかと尋ねられ、若きSGはこう答える。「いいえ。あとはオーケストラ・パートを練習しておいて頂ければ」。するとフルトヴェングラーは大真面目で「わかった」とひとこと言ったそうである。あとから、古くからいる楽団員に「コンチェルトの伴奏の練習をオーケストラだけでやったのは、ニキシュの時代にたった一度だけだ」と言われ、SGはびっくりして、「世の中のことを知らないとは恐ろしい。自分はいかにも子供過ぎる」と恥じ入り、後でフルトヴェングラーにお礼を言ったところ、「いや、あれは必要なことだった」との返答に、ほとほと恐懼したとSGは回想している。(p.33)
ベルリン・フィルでは、フルトヴェングラーが指揮する時だけ、SGがコンサートマスターの席に座るという破格の待遇を受けていた。練習風景を覗くと、「フルトヴェングラーは何かをオーケストラに指示する時、それをまずSGに伝える。するとSGはすっと立ち上がって、弦のパートも管のパートも、フルトヴェングラーの要求する表現を、ヴァイオリンで弾いてみせる。その演奏は実に鮮やかな見事なものであった」そうである。(p.29)
「1950年、ニューヨーク・フィルとベートーヴェンのコンチェルトを共演した時、ウィーンの国立図書館に保管されたままあまり人に識られていない、ベートーヴェンの原譜といわれるオリジナル版を弾いたところ、翌日のニューヨーク・タイムズに〈ゴールドベルク変奏曲つきベートーヴェン・コンチェルト〉という見出しで批評が載ったとか…。彼の中に潜む悪戯っ子的要素がくすぐられてか、批評家のウィットを愉快がって」いた。(p.88)
SGが自筆譜に基づき‘編曲’した部分が読み取れる。
ベルリン・フィルのコンサートマスター就任後の1931年からSGがドイツを去る1934年までの3年間、固い信頼と友情で結ばれたトリオである。フォイアマンはヒトラーのユダヤ人狩りで「ホッホシューレのポストを剥奪されドイツを去り」、ヒンデミットは「夫人がユダヤ系であることや、彼の作品が思想的に反ナチス・ドイツであるとされていたこと、《画家マチス》の演奏禁止をめぐる事件等もあり、国外追放同然にドイツを出てしまい」、わずか3年でこのトリオは解散となる。(p.34)
このデュオは、当時スイスの山荘に住んでいたSGが、南の峠を下りたコモ湖畔に、アルトゥール・シュナーベルを訪ねた折に、その講習会に来ていたリリー・クラウスと出会い、夫君のメンデル・クラウスにデュオを持ちかけられ、シュナーベルに相談したところ、「リリーはまだまだ独り立ちできる腕ではないが、君が教えれば能力を発揮するだろう」と言われて誕生した。(p.47)
「アスペンのモットーは、異なった分野のリーダーたちが集い、そこで生じる刺激を共有し、共に考え、共に学ぶこと。そして次の世代のリーダー[人間的な魅力ある個性、批判力、表現力を持ち合わせ、道徳や倫理について深く考えることのできる人]となるべき人たちを養成する理想の場を造り上げ、社会に貢献すること」であった。(p.92)
1951年、アスペン音楽祭が始まると同時期に、プリムローズの提案で結成されたピアノ四重奏団。1964年グラウダンの死去により自然解消。この写真に写る3人の弓の美しさについて、SGは「ヨーロッパの弓のテクニックの表情」と語る。(p.94)
ミヨーはアスペン音楽祭の創設メンバーの一人で、SGと共にここで夏をすごした。手紙は1968年1月25日付け、アスペンでの再会を期す内容である。SGは音楽祭で1966年にミヨーの七重奏曲を、1968年にはヴァイオリン・ソナタ第2番を演奏している。
SGは、1969年リーズ国際ピアノ・コンクールの審査員に招かれ、若いラドゥ・ルプーを見出す。「第2次予選でルプーが演奏したシューベルトの即興曲作品90-1のフレージング、音色の質、ディミヌエンドの美しさなどを大いに称賛」し、その将来性を見越してソナタのパートナーに指名。
ルプーは1993年ザルツブルク音楽祭で、SG追悼にこの即興曲をアンコールで弾き、聴衆の感涙を誘った。(pp.132-133)
SGは1966年、第9回大阪国際フェスティバルの招きで、2度目の来日を果たす。
「レンブラント、フェルメール、ゴッホを人類の知の宝庫に加えた国」であるオランダが、その合理主義、実利主義から「国の室内オーケストラを設立するにあたり、ゴールドベルクを音楽監督に迎え」た。SGは「室内管弦楽のもつレパートリーの豊かさ」に惹かれ、この室内オーケストラの設立に力を注ぎ、音楽監督、常任指揮者、ソリストとして22年間(1955〜77年)、その育成に努める。(pp.107-108)
SGは、「室内管弦楽曲をいわば縮小された交響曲としてではなく、あくまでも大きな室内楽として捉え、その延長線において合奏独特の味わいを描き出すことに(例えば、伴奏形を単なる伴奏ではなく、内声とみなすというように)リハーサル時間を多く割り当てていた」。(p.128)
「たった1オクターヴの音階でありながら、しかしそのたとえようもなく壮麗な無限の広がりに、誰もがゴールドベルクの芸術の神髄を聴く思いをもつ」、第2楽章冒頭部分である。
SGは、「初心者の弾く曲という扱いを受けている」この曲を機会あるごとに取り上げている。ハイドン作品の真価を世に広めたいという強い意志が働いていたと思われる。SG曰く、「フルトヴェングラーですらハイドンのシンフォニーをいわゆる前座の曲としてしか取り上げなかった…」、「フレッシュまでもが……不思議だね。」(p.125)
SGとルプーのひとこま:「ゴールドベルクが何かのことで「ハイドンが…」と言うやいなや、ルプーもあの第2楽章のヘ長調の音階を歌い出し、ゴールドベルクが呆れ返った顔で彼を見て笑って」いた。
SGとある老紳士のひとこま:ニューヨークの道で、見知らぬ老紳士が「ミスター・ゴールドベルク!」と呼び止め、愛を込めて一言。「もう何年も昔のことになりますが、私は貴方のハイドンの《ヘ長調の》コンチェルトを今も忘れることができません」。SGのウイットに富んだ答えは、「おやまぁ、私はそんなに音程をはずしていましたか……」。(pp.125-126)
初顔合わせは、1990年7月の第27回ハイドン・シリーズで、以後1993年まで、日本とアメリカを往復していた時期、「カーティスが休暇に入る5月から9月」に、計4回の演奏会を行っている。(p.137)
1993年2月9日が、新日本フィルとの最後の共演となる。
「フルトヴェングラーのコンサートマスターとして、フルトヴェングラーの解釈に触れた20歳の時から胸に抱き続けた、彼の言う〈不可解な部分〉をいつか理解できる勉強をしたいと思」い、「やっとその時間が持てた」と、晩年の2年間、「寝ても醒めても」勉強した曲に、モーツァルトの交響曲第40番の他、シューマンの交響曲第4番がある。シューマンは奇しくも新日フィルとの最後の曲となった。(p.321)
新日フィルの花崎薫氏は言う。「第3楽章のトリオの冒頭のシ♭の音を、先生は『このバスは鐘の音です』とおっしゃり、我々が弾くと『いや違う、そうではない』と何度も何度も繰り返させ、それでも駄目でした。何が、どうして、どのように駄目なのかはおっしゃらない……。今にして理解することは、要するに、この音によってつくり出さなければならない『2拍目と3拍目の休符の表情がない、それが駄目だ』ということなのでしょう。あとになって先生のスコアを拝見して、そのことに気がつきました。あの時に分かっていたならと悔やまれます」。(p.318)
同大学のオーケストラを指導、指揮したのは、1987年から1990年までの毎年、計4回であった。その他に、1988年、1989年、1993年に、計8回、公開講座の授業を行い、室内楽を学ぶ学生たちを指導している。指導は2週間から1ヵ月にわたり、同校の402号教室で行われた。
SG生涯最後のステージとなった水戸室内管弦楽団の第13回定期演奏会の模様である。プログラムには、シューマンの交響曲第4番と並び、SGが長年にわたり、「納得いくまで勉強してみたい」と考えていた曲の一つ、モーツァルトの交響曲第40番も組まれている。SG曰く、「モーツァルトのあとでシューマンと向き合うと、何だかガウディの建築でもみているような気分になることがある」。(pp.283-284)
プログラム後半でコンサートマスターを務めた安芸晶子氏は言う。「リハーサル初日、音出しのその瞬間から、私たち一同、全身全霊魅了されてしまっていました。どこまでもついて行きたい、要求のすべてを成し遂げたいと思わなかったメンバーは一人もいなかったと思います。みな少しでも多く学びとりたかった。それはそれは充実した一週間でした。午前、午後と、毎日ずいぶん贅沢なリハーサル時間が組まれていました。皆、休憩時間も惜しんで、さらっていました」。(p.282)
SGにとって、生涯最後の時期に、静かに音楽と向き合える貴重な時間が確保されたことは、何よりの喜びであった。心置きなく楽譜を読み、時にコーヒーブレイクを楽しむ。日課の散歩で見つけた小さな白い野生の花に心和ませる至福の時間が紡がれていった。山根美代子は、この場所を「彼が愛した立山の寓居」と呼ぶ。
定宿としていたホテルの471号室「ゴールドベルクの部屋」
互いに敬愛する伴侶であり音楽の同志であった、SGと山根美代子による富山でのリサイタル。
・ベートーヴェン:ソナタ 第5番 ヘ長調 Op.24「春」
・ブラームス:ソナタ 第2番 イ長調 Op.100
・ヒンデミット:ソナタ 第1番 変ホ長調 Op.11-1
・ドビュッシー:ソナタ ト短調
翌年7月、新潟市でのリサイタルでは、モーツァルトとブラームスが取り上げられた。
1993年1月11、12日: | 桐朋 モーツァルト四重奏 |
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2月9日: | 新日本フィルハーモニー |
4月10、11日: | 室内管弦楽団 |
8月: | 新日本フィルハーモニー |
9月17日: | ソナタ |
93年12月または |
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1995年、SG没後2年後、山根美代子は彼の愛器をワシントンDCのスミソニアン博物館に預け、公開展示された。2006年5月、美代子は若き音楽家たちに貸与する条件で、この楽器をワシントンDCの国立議会図書館に寄贈する。美代子の死後“グァルネリ・デル・ジェズ・ゴールドベルク=バロン・ヴィッタ”と命名され、議会図書館の管理の許にある。
1993年7月19日、「彼は亡くなる数時間前まで、楽譜の解読作業に没頭しておりました。その少し前には、3時間も続けてブラームスのヴァイオリン・ソナタ〔第2番〕のリハーサルを私としておりました。とても言葉では言い尽くせない見事な演奏でした。彼自身、納得のいくものだったのでしょう、冗談にもそういうことを言わなかった彼が、『悪いヴァイオリニストでなかったことわかった?』と言ってヴァイオリンをケースにしまっていました」。音楽家として生きた生涯を締め括るに相応しい燦然とした音色の張りと艶であったと美代子は語る。(p.147)
1970年、ロンドン、BBCスタジオコンサートにて録音
「レコード会社から繰り返し録音の依頼を受け続けながら、『自分にはまだ理解したと確信がもてないから』と、とうとう録音せずじまいに」なった曲である。「本来これらの作品こそ、彼が生涯を通じ、日々向き合って過ごしてきたかけがえのない宝であり、彼にとって天空の広がりを持つ永久(とこしえ)の光であり続けた作品であったのですが……」。(p.101)
小林健次(ヴァイオリン)、桐朋学園オーケストラ、1987年録音
1987年9月2日、桐朋学園大学オーケストラ指導のために3度目の来日を果たしたSGが取り上げた曲は、バッハのヴァイオリン協奏曲とブランデンブルク協奏曲であった。これはリハーサルを収録したもの。
バッハの第2番は、SGが1924年15歳でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演した時にも弾いた曲である。また、1938年、カーネギーホールにて、アメリカデビューを果たした時にも演奏し、ニューヨークの聴衆から絶賛を浴びている。
オランダ室内オーケストラ、フィリップス社、1958年録音
1958年、フィリップス社との契約でSGがオランダ室内オーケストラと行った最初の録音である。「演奏会でヴィオラを弾いたのは、おそらくオランダ室内オーケストラと《ブランデンブルク協奏曲》の全曲を演奏した際、第6番のヴィオラのソロ・パートを弾いた時だけだったのではないかと思います。[……]そのためにヴィオラも買って、のちにそのヴィオラを手放しています」。
SGはヴィオラの音色をこよなく愛した。オーケストラの楽器配置では、ヴィオラを第1ヴァイオリンの正面(上手)におき、「ヴィオラ・パートの美しい響きの支えがいかに大切であるかを示し、『今日はヴィオラの音が大きすぎたと言って音楽会場を出て行く人は一人もいないはずだ』とも言って」いた。(p.127)
1965年8月11日、アスペンにて録音
「外の嵐の音が聞こえる分だけ、生の演奏の迫力が増すようにすら感じさせる」名演奏である。このテープをSGと共に立山で聴いていた美代子の話によれば、「途中、雨、風の音に雷の音まで聞こえてきたので、急に嵐がきたのかと思い込んだ私は、窓を閉めようと立ち上がり、外を見たら立山の夜は満月の静かな明かりに澄み渡って」いた。1950年代、初めてこの曲と取り組んだSGは、「今年弾く。いやまだだめ。来年にする」と真剣に作品と向き合っていた。(pp.99-100)
SG(ヴァイオリン)、山根美代子(ピアノ)、1991年6月、富山にて、EMI録音
1991年5月に富山で行ったリサイタルのプログラムから3曲(ベートーヴェン、ドビュッシー、ヒンデミット)を翌月録音したもの。山根美代子との2つしかない録音の内の一つである。濱田滋郎氏によるライナーノートには、パートナーの山根が、「ゴールドベルクの気息にぴったりと寄り添い、しかも自発的な奏楽の喜びに欠けることのない、高度な協演者ぶりを披露」し、「理想的な’たしなみ’をもって、通俗に傾きかねないこの主題にすこぶる優美な面差しを与え得ている」とある。
ミトロプーロス指揮、ニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラ、1950年、ニューヨーク、カーネギーホールにて録音
41歳のSGのこの演奏は、隠し録りされていた音源を、オーディオ専門家の半澤仁氏が技術を駆使して再生に成功した貴重な録音である。
SG(ヴァイオリン)、パブロ・カザルス(チェロ)、ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)、1954年6月18日、プラードにて録音
1954年プラード音楽祭のライブ録音である。カザルス78歳、ゼルキン51歳、ゴールドベルク45歳。
SGは、プラードから7キロ程離れた山里に宿をみつけ、そこから毎日プラードに歩いて通った。「村の靴屋さんにヴァイオリンを背負える背負子のようなものを作ってもらい、二宮金次郎スタイルで山から下りて来」た。
それを見たカザルスがゴールドベルクに一言。「貴方、登山が好きだそうですね」。SGは、「いえ、私が駆け登るのは指板の上だけです」と答える。するとカザルスは「それもまた危険なことですね」と返す。カザルスにも「ユーモアがあるのだ、と親しみを覚えた」とのこと。
「三人の音楽が、音楽全般にわたる約束事の共通項の上に立って、ベートーヴェンの語彙語法の根底にあるものへの、理解を共有している演奏」である。「各々の楽器のこれだけの名手三人が、三人三様鮮やかに、異なる強烈な個性をもって、しかし共有し確信する言葉がひとつとなって響き合っている」。(p.105)
※資料展では、SGが実際に使っていた楽譜の複製版が用意され、読みながら試聴できた
フェスティヴァル・クァルテット(SG、プリムローズ、グラウダン、バビン)、1958年3月7日、10日、ニューヨーク、タウンホールにて録音
アスペン音楽祭で結成されたこのピアノ四重奏団は、1964年、チェリストのグラウダンの急逝により自然解消となり、録音も多くは残されていないが、その演奏からは、格調高いヨーロッパの薫りを感じさせる趣味の良さが聴き取れる。
なお、SG文庫には、グラウダンのサインが入った同曲の楽譜が所蔵されている。
ワルター・ジュスキント指揮、アスペン・フェスティヴァル・オーケストラ、1968年8月18日、アスペンにて録音
メモリアルCDシリーズの第5巻ディスク1には、同じ曲の別版が含まれている。1966年、大阪国際フェスティバルにおいて、オランダ室内オーケストラを弾き振りする録音である。
ヒンデミット・トリオ(SG、P.ヒンデミット、E.フォイアマン)、1934年、ロンドンにて収録
トリオの3人ともドイツを脱出した後の1934年、それぞれの演奏旅行日程を調整してロンドンで録音された。
練習は、「ヒンデミットがすでに作曲に重点をおいていた時期なので、彼がヴィオラ奏者として演奏家の感覚を取り戻すためにも、三人が集まるとまず作品を何度も通して弾くことから始めて、その間にお互いの意図や意向を確認、調整」しながら進められた。「そしてそのあと疑問点なり、問題点の解決策を見つける作業に入る」というものであった。(pp.34-35)
SG(ヴァイオリン)、リリー・クラウス(ピアノ)、1935年11月、ロンドンにて録音
ロンドンにてパーロフォンに録音。リリー・クラウスとは、1935年以降、オランダ、パリ、東京などで共演を重ね、またこの時期から録音も多く残している。
この曲は、1936年初来日の折、3月26日、日比谷公会堂で、4月5日、大阪朝日会館で演奏されている。
オランダ室内オーケストラ、1971年、アムステルダムにて録音
1969年夏、ミシガン大学における〈アメリカ・ストリング・コンヴェンション〉の合宿では、生徒たちを全員参加させて《浄夜》で締め括る演奏会が毎年計画されたのだが、「1年目にオーマンディを招き、練習第1回も貫徹できずにプロジェクト中止。2年目にラインスドルフが来て、これも1回の練習で決行断念。3年目に、今度こそ、とゴールドベルクに声をかけ、100人近い合奏での《浄夜》に遂に成功した」。アポロ11号の月着陸の直後だったので、「『人間は月にだって行けるのだから、音程の三度や四度の飛びくらい出来て当たり前』と、コーチたち一同ゴールドベルクも、とびきり面白いゲームに熱中した少年団のように、この演奏会の成功にスリルと喜びを味わったそう」である。(pp.129-130)
SG (ヴァイオリン)、ラドゥ・ルプー (ピアノ)、1978年ロンドンにて録音、デッカ
マリア夫人の病状が悪化し、イェール大学で知り合った医師の治療を受けるためアメリカに渡った後、アメリカとヨーロッパを往復する切迫したスケジュールの中、録音が行われた。「ルプーの話では、マリア夫人の容態を気づかうゴールドベルクは、休憩のたびにアメリカに電話を掛けるため休みもとらず、プレイ・バックもルプー一人に任せていたという大変な時期だった」という。「結局、このシューベルトの録音がヴァイオリニスト・ゴールドベルクの演奏活動の最後の証となってしまった」。(p.133)
新日本フィルハーモニー交響楽団、1993年2月9日、東京にてライブ録音
東京芸術劇場での演奏会を録音したものである。この曲は、SGが最後まで追求し続けた曲であり、第1楽章冒頭部分のpp(ピアニッシモ=ごく弱く)を、「〈音量〉というより、〈音の色合いなのだ〉と」伝えるべく、オーケストラと何度も繰り返し練習を重ねた。p.314)
オランダ室内オーケストラ、1963年ごろ、アムステルダムにて録音
SGは、「作曲家と演奏家がその時代を共に歩むことで、はじめて音楽の発展への道が開かれ、前進のエネルギーが与えられるのであり、自分と同世代に生まれた作品を取り上げることは、いわば演奏家の任務であると感じて」おり,「思考の新しさを音、形に見出していくことに、大きな関心をもち続けた人」であった。「〈響きの斬新さ〉という点において彼の興味を誘った作品」には、オランダのバディングスの交響曲第9番、ギリシャのスカルコッタスの本作品がある。(p.126)
文庫には、本作品のスコアとパート譜が残されており、いずれにも多数の書き込みが施されている。
※資料展では、SGが実際に使っていた楽譜の複製版が用意され、読みながら試聴できた。
1. フルトヴェングラー没後10年追悼番組より(1964年)
2. フォイアマン追悼番組より(1994年9月〜10月放送、1967年ニューヨークにて収録)
水戸室内管弦楽団、1993年4月、水戸にて収録
ハイドンの82番は、1990年7月、新日本フィルハーモニーのハイドン・シリーズでもタクトを振った想い出の曲である。SG生涯最後の指揮となった。
モーツァルト:弦楽五重奏曲 ト短調 K 516
1993年6月、桐朋学園内で録画された学生たちとの記録画像
小林健次氏は、モーツァルトの楽譜の読み方についてSGが語った啓示的教えとして以下のように述べる。「コンチェルトでも室内楽でも、作品に潜む劇的様式を感じさせなくてはならない。そのためにも作品のオーケストレーションに細心の注意を向け、常に変化する速度的にも速いメロディの扱いに、的確なリズムを与えるように」。(p.226)
また、公開講座での様子を次のように語る。「ゴールドベルク先生は普段の会話のなかでも、人の話をじっと聞いていらして、一言か二言、静かにしかし的確な表現で何かをおっしゃるという方でした。愛器グァルネリ・デル・ジェズを片手に、生徒の演奏を曲の最後まで通して聴き、そのあと、一つでも良いところを見つけて、必ず何かを褒めてくださいました。しかし生徒の演奏に対し、指摘なさったことを先生が実際に弾いて見せてくださると、先生の音楽との歴然たる音の違いがひしひしと感じられ、聴く者にとって、マスタークラスそのものが、〈ゴールドベルク〉という劇場の舞台で、演奏会とはまた違った角度から名作品を鑑賞するような体験でした」。
そして、SGの持論として、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスは、自身がみな優れた演奏家であったのだから、「彼らの作品に記された記号は、どれ一つとってみても、その記号の持つ音楽的意味が、常に的確な奏法を以って具現されるべく書かれたもの」であり、作曲家の意図を正しく楽譜から読み取り、見極めた上で、その音楽を呼び覚ます奏法を発見しなければならないと語り継ぐ。(p.239)
「一粒の麦ここに芽ぐむ シモン・ゴールドベルクと山根美代子さんに捧ぐ」2006年
「流転のヴァイオリニスト シモン・ゴールドベルク 日本への長き道」1993年